抗がん剤の後は放射線

抗がん剤というのはもともと毒ガスから作られたそうなんです。 
マスターガスから。 う~ん辛いはずです。
癌というのは成長の早い細胞で抗がん剤はそれをやっつけるそう。 
体毛も成長が早い細胞だそうで、なので抜け落ちるんだとか。 
なので髪が抜けてるのを見ては「効いてる、効いてる」と考えていました。

体中の毛がなくなって、抗がん剤が終わり、さあ、どこからはえてくるのかな?と楽しみにしてたら

鼻毛!だったんです。 これにはがっかりしました。

こら!いちばんいらんわ!って。 でもきっと一番大事な毛なんでしょうね。

9月、つらい抗がん剤も終わり放射線がスタートしました。 
この頃の日記には{髪はまだふわふわの産毛だけ、眉毛の部分は青くなり、まつげはプツプツと短いのが出てきた)と書いてありました。

放射線は全部で33回。 毎日ぶっ続けで放射します。

やってる間は痛くも痒くもないんですが、何回もしてるうちに皮膚が焼けてきます。

それとやはり疲労感。 でもあの大好きな先生だったのでつらくなかった。

あの「孫を抱くまで生きなさい!」の先生です。

時々様子を見ては「まだまだミディアムよ!ウエルダンまでね」なんて笑わせてくれたりして。 

それでも後半にはかなりの火傷の状態。 皮膚がむけ服についたりして痛かった。
軟膏を塗ってもらいながら「でも中の癌もこれだけ焼けてるのよ」と聞いて、そうだ、効いてるんだって。

実は抗がん剤も治療も途中でやめようと思ったほど弱った時もありましたが、母がいつも
「あんたは、いつでもがんばった。 途中で投げ出したことなんかない、鉄棒の上まで上れるんだから」といってくれたんです。

説明します。この鉄棒の上というのはですね、私が小学1年生の時のことなんですが、その頃長い鉄の棒に上までよじ登るって言う体育の授業があったそうなんです。

母がたまたま学校の外から見てました。 私はなかなか登れず棒の途中で真っ赤な顔でしがみついてたそうです。 チャイムが鳴って他の生徒がクラスに入っていく中、先生は待っていてくれたそうです。 

次の授業が始まってからも、少しずつ登って、ついに上まで行ったそうなんです。 正直、この時のこと覚えてないんですが、これを見届けた母は、その時から私のこと信じてくれているようなのです。 

それにしても先生が素晴らしいですね。 もし、この時に時間だから終わりだよと諦めていたら、少し性格も変わってしまっていたのかしら? 

とにかく、つらい、もうやめようと思ったときはいつも
「私は鉄棒の上まで上れるんだから」とがんばったのです。


話が飛びましたが、放射線。 終わった時にはもうただれていてひどい状態でした。 

ケロイドの部分もあって、痛かったのを覚えてます。 この放射線ですごく薄い皮膚になってしまって、1年たっても再建できなかったのです。

羊紙のようといえば分りやすいでしょうか? それとも古文書、触ると破れてしまうような。
やけどのただれって痛いんですよね。 

それと不思議なことにすごい音痴になってました。 バンドをやってたほど歌が好きだったのですが、笑っちゃうほどの音痴。
これはのどへの影響でした。 毛細が焼けるのだとか。

自分が好きだった物がいろいろなくなった。 

まず、女性の象徴のような乳房。長くしてた髪、髪形を変えるのが好きだった。 つめの手入れ、抗がん剤で真っ黒になってました。 歌声。去っていった人もいます。 

でも命がある。

大切な家族と愛情も失わなかった。 

親友もいつも、いつも支えてくれました。 ありがとうイルカちゃん。

いろんな物を失いましたが、大切な物はもっと絆が深まったと思います。
沢山の愛をありがとう。 

ハワイの絵と友人の乳房再建

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ハワイで描いた絵です。 家に沢山ハイビスカスが咲いていて毎日見て写真を撮ったりスケッチしたりしてました。
満載に咲いてるようで、一つ一つの花の命は1日なんです。
たった1日でも太陽にぐっと顔?をのばして咲き誇る姿を見ると元気が出てきました。

ハイビスカスやプルメリアの落ちてる花を拾ってよく耳の上に刺してました。
ハワイではすごくポピュラーなスタイルだったので。

抗がん剤は2週間ずつ8回で4ヶ月だったと思います。
人生で一番きつい4ヶ月でした。 

一緒に治療してた友達のKちゃんは抗がん剤の日、病院が見えてきたらもう吐き気が始まるっていってました。
私もそんな感じでしたね、あまりにも治療がきついので、点滴の前からもうふらふらしたりして。

ある本には抗がん剤の医者を外で見かけて道端で吐き始めた患者さんもいたそうです。

Kちゃんは白人のアメリカ人女性でおしゃれを諦めきれずにいくつもいくつもウイッグをオーダーしてました。
とっても綺麗なブロンドの長い髪だったので、抜け始めた時はワアワア泣いてました。
いくつか私にウイッグくれたんですけど、ど金髪! でもすごく気に入ってかぶってました

彼女は再建も成功して、正直羨ましかった。 
私は放射線をやったので、皮膚がケロイドのように薄くなり、引きつれて1年待って再建に挑戦しましたが何回も失敗してやめました。 
結局そのまま。

Kは「すっごいわよー再建手術!! 何もないところに皮膚を切って折り紙のように折って乳首を作るのよ~」
って嬉しそうでした。 そして「そのニセ乳首に薄いピンクのタトゥーを入れるの!」って。
私も Oh! I want to see them!!って、他の人がそこだけ聞いたら変態みたいですね。

医療の進歩ってすごいです。 でも抗がん剤はもう少しなんとかなればいいのにって思います。
苦しむ人が一人でも減って欲しいって思います。

サウスベイギャラリア


この写真はレドンドビーチの近くのサウスベイギャラリア。 
夫が3日間リーブといって有給休暇をとったのですが、
その間がとんでもなく忙しかった。ふうう。

今まで溜まってたタックス関係、銀行関係、保険等などの書類。
11月からはじめる私と母のお仕事関係の書類。
歯医者だの郵便局だのというこまごまな用事。

その中で夫の出張のスーツ探しが意外と時間かかった。
でも、そのおかげ?で丸2日いろんなお店に行けたので嬉しい!
まだ運転免許がないので(何年も仮免ばかり取っている私、世界一運転下手かもしれない)
アメリカではどこにもいけない~。

バスも電車もあるんだけど、電車では毎回怖い思いをしてて、あんまし、というかもう乗りたくないの。
いつも「金をくれ~」がでる。

なので、こういうチャンスはうれしい。 
チャンスなんていってるけど毎週アッチへ連れて行けコッチヘ連れて行けと言ってるけど
相手の用事だと「もう、しょうがないな~」なんて感じで嬉しい。

そんなとき猫ちゃんは家で抱き合って(また!)お留守番011_convert_20101029080001.jpg

抗がん剤

2003年5月。 2回目の手術が終わって1ヶ月たったあと、抗がん剤が始まりました。
ACとTという3種類。 最初のACを2週間ずつ6回。 Tのほうを2週間ずつ4回。

朝、病院に着くとまず静脈に針を入れ、まず1時間ほど点滴。 そのあとからAを点滴の袋から落としていき、そのあとCのほうを入れていくので3時間くらいかかったと思います。

私には抗がん剤が手術より放射線治療より一番辛いものになりました。
最初から副作用が強く出て、吐き気やしびれなどですが、それ以上に疲労感がひどかった。
ベッドに横になったまま、何も出来ないというのが10日くらい続いて、3,4日やっと人間並みになったと思ったら次の抗がん剤(普通は3週間おきですが、進行してたので2週間に1回)

始まる前に髪が抜けるのは聞いていたので、短くカットしておいたんですが、やはり抜け始めたらすごくショックで枕についた髪やシャワーで抜ける髪を見て泣いたものです。
どうせぬけてしまうのなら、と、ある日全部剃ってしまいました。 
ここでも夫が活躍してくれて手伝ってくれて、「可愛くなった、赤ちゃんみたい」なんて大嘘ついて、泣く私を慰めてくれました。 日本から手伝いに来てくれてた母も「あんなにおしゃれだったのに」と泣き、息子も「ママが変わっていくのがいやだよ」と泣いていました。 
「見た目が少し(少しじゃないけど)変わるだけでママの心はちっとも変わらないよ、いつでも、いつまでも大好きなんだから」って慰めていると、夫は「おそろいにしよう」って自分の頭もそってしまいました。
もうかなり薄くなっていましたけど、そりあげるのは勇気がいったことだと思います。
正直、うれしかった。 はげ頭を並べて写真を撮ったりして。 
ちなみにそり続けてるうちに夫の方はもう禿げてしまって、私の髪が伸びてきた頃にずるい!なんて笑ってましたが。

抗がん剤を続けるうちにまつげも眉毛もどこの毛もなくなっていって、泣くよりも驚きが強くて「人間いろんなパーツをとったら皆同じような顔なのかも」なんて考えたり。 顔色も悪かったしどこかのおじいさんみたい、なんて。

抗がん剤は白血球を破壊するのでかなり抗菌に気をつけなくてはなりません。
私の場合、白血球を増やす注射を抗癌1日目から1本ずつ10日おなかに打ちました。
約80本、ほぼ自分で。 最初の1本はできないよーこわいよーと泣きながら。

やけになって腫瘍科の医者に「もうやめたい!」と抗議したところ「ok」なんていうじゃないですか、
そして「続けるのもやめるのも自分の意志でいいんだよ」なんて言うのです。
でも反対にそれを聞いて目が醒めました。 誰の為の治療なのか、自分が生きてまた普通の生活に戻る為じゃないのか?ってその先生は言いたかったんだと思います。 アメリカの生存率が日本より悪いのはこういうこともあるのかもなんて思ったり。 きっと「ok,私はもうたくさんよ、やめるわ」なんていう人も多そう。

この医者は腫瘍科の専門医、前回のネバーノーの外科医、形成外科の医者、放射線科の医者と4人でチーム。 そこに癌の後の精神的なケアの先生、抗がん剤の特別チーム。 後にこのドクターは変えてもらいました。
「そんなこといいの?」と思いましたが、アメリカでは良くあることだそうです。

この中の放射線のドクターに私は何回も助けられました。50台後半のかっこいい女性のドクターでいつも笑わせてくれました。 落ち込んでる時に、ワンワン泣きながら
「ドクター、、私、、死ぬの?」と聞いたら
「OH!!YES!! ただし99歳くらいにね。 孫に囲まれて死ぬのよ、すばらしいわね、その頃私はとっくにアッチの世界に行ってるから待ってるわ」なんて言ってくれて。
「あなたね~あんなに可愛い子供がいるのに、孫を見たくないの? 孫を抱きなさい!!」って。
その医者の一言でどれほど救われたか。 それ以来私のモットー(?)は孫を抱くまで生きる!なのです。

ハワイでの日々について


 
治療のために行ったハワイ。 6年いる間に大好きになりました。

毎日空を眺め、花を眺め、鳥を眺め、海を眺めていました。

椰子の下で日光を浴びて風を感じ、暖かい海の中に体を横たえると傷が治っていくようでした。

療養には完璧な場所で、実際ハワイの神様に治してもらった気がします。


エバビーチに家を買い、毎日のんびりと1日50時間くらいあるハワイ時間を満喫してました。

ただ何回もの手術と特に抗がん剤、後半の卵巣、子宮手術のあとは外に出るのが怖くなってしまって。
特に対人恐怖症で人の目が怖い、人が来ると汗が噴出して蕁麻疹がでて、ここまで立ち直るのに長い時間がかかりました。
その頃、家でよく油絵を描いてました。 気持ちがとても穏やかになっていくのを感じながら。
今はLAのアパートの壁にかかってます。
そこの下で、、、。

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猫たちが手をつないで寝てます。

週末は闘病記お休み~。

アメリカで癌闘病記をずっと書いてて、しばらくおも~い感じだったので、この辺で一息
チャチャ丸のウインク 両目ウインクもよくしてます。 ぎゅう~~って。

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風邪の治ったコタロウ(でもチャチャにうつしました)
椅子の背中が額みたいでおもしろい。

家族にもですが、猫たちにいつも癒されてます。 皆 ありがとう。

乳癌手術 後編

7回の手術の内容です。
1、左胸全摘手術、2、取り残しリンパ節を手術 3、1年後に形成外科再建用の手術 4、取り出してバッグを挿入 5、それが体に合わずに小さい物と入れ替え手術 6、それも炎症、取り出し手術。 7、その後卵巣と子宮摘出手術。 
と、計7回の手術。 その間に熱が出たりして入院したりしてます。
2,3の間には抗がん剤治療と放射線治療をしています。

まず最初の手術が終わり、3日後に家(仮の場所なのでホテル)に帰ってきました。
オクシコディーンOxycodoneというかなり強い痛み止めを1日5回飲んでました。 
手術をした胸の下に穴が開いていて、そこから体液をチューブに取るようになっています。 
溜まったら記録して中身を捨てます。 血の色がうすくなってきて、少なくなったら回復中。

当時はかなりくわしく記録をつけていて、それを見ながら書いてますが、初めて鏡を見た記録がないんです。
ショックだったのだと思います。
一生目をそらすわけには行かないのだからと、すぐに包帯を取った記憶があります。 
その後何回も見て泣いたりもしましたが、その時の瞬間だけは覚えてない。

数日後からはじっくり観察しました。
温存ではないので文字通り、当たり前ですが丸ごとなくなっていました。
左胸のあった場所に 刀できられたような長い傷跡がついていました。
なん針もの縫い目。 
この後同じ場所を4回も切って、最後は医療用ホッチキスのようなもので止められるなんてこの時は知りもしませんでした。 


心優しい夫は「あ、すごくきれいな傷跡だよ、良かったね」なんていって消毒してくれたりして。
食事を作り私のケアをし、子供のケアをし大変だったと思います。 心から感謝してます。

「ねえ、胸が一つになっちゃったよ、、こんなワイフでいいの?」って聞いたら
「ああ~2つもあったらToo sexy1つでじゅうぶんだよ」なんていってくれました。

「それに胸を見て結婚を決めたわけじゃないよ、、おしりだけどね」なんて笑わそうとしてくれたり。

そして思いやり深く…

「どんな姿になってもかまわない、生きていてくれたら」と。 

思い出したら涙が出ます。

こんなに支えてくれたのに、今ではカカア殿下に逆戻り。 ひどい嫁ですね(笑)


8歳だった息子も何回も泣いていました。このときはまだ英語と日本語ミックスで
「ママァー Can you live? …行ったらだめよう、ずっと一緒にいないと、だめから~!だめから~!」って。
そのたびに「ママがんばるよ、だって孫を抱っこしなくちゃいけないもんね」って。
本当にそんな日が来たらいいのにと思いながら言いました。

18日手術、25日に病院でチューブを抜きました。 これが今までで一番くらいの激痛。
手術よりもこっちの方が痛かったのは炎症してたから。汗が吹き出し、大泣き。
指の先の炎症でも痛いじゃないですか? それが1センチ大の穴2つから胸の中の長いチューブを抜くのですから、その時は激痛でした。

この夜40度を超える熱が出て感染症の疑い。 すぐにまた病院へ。 流れる涙が熱ですごく熱かった。
病院ですぐに抗生物質を手から点滴。 
右腕は手術の時の穴だらけでさす所がなくて手の甲、親指のつけねに点滴。 さした時すごく痛かったので持っていったノートの字がぐしゃぐしゃ(でも書いてる)
左胸を手術してるので左腕には小さい傷も付けられないと言われてました。
浮腫と言うのになる可能性が高いということでした。 なので右腕にはもう針を刺す場所がなかったんですね。

この時もどうにか乗り切り4月18日。 1ヶ月経ったので抗がん剤の説明を受けに病院に行きました。
腫瘍専門医がその前に触診をしたところ脇の下にパチンコ玉大の腫れが、、。この時も絶望して泣きました。
そして25日、2回目の手術。 後からこれも悪性腫瘍、リンパ節に転移した癌だとわかったんです。

手術の検査の結果ステージ3に近い2Bというもので転移は全部で4つ。当時は5年生存率でも40パーセントくらいだったと思います。 生存率に振り回されていました。あと、どのくらい? 2,3年? どうなるの?と。

何回も落ち込み、泣き、それでもそのたびに家族の絆は強くなっていったのです。

次回抗がん剤に続く。

皆様の暖かいコメント本当にありがたく、心から感謝しています。 ありがとうございます。
ブログの趣旨は大きく変わってきたいましたけど、私の体験を通してメッセージが伝わればと思い書いています。
しばらくお付き合いください。
闘病中の方には勇気を出していただきたいのです。 こんな経験しても、こんなに元気になったのだから。
あまりに壮絶な記録で書こうかどうしようか悩んだのですけど、自分の体験が少しでも役にあったらいいなと思って書いてます。読んでいただいてありがとうございます。

アメリカで乳癌治療 手術編 前編

前回の医者の話は反響が大きく驚きました!
ちょっとニュアンスが違うので書き足します。
なんていうかアメリカ独特のお気楽なかんじでの肩をすくめ両手を広げの

(Well...Never know...HAHAHA)

そう、こういう感じに続いたのです。
「それは、、、誰にもわかんないよ、、ははは。だって僕だってこの病院を出てすぐにトラックにはねられるかもしれない、運命はわからないものなんだ、パーセントなんて本当は誰にもこうなんだって言えないんだ」と。
「それにこれから手術だしね、まだ調べてもないしね」なんて、鼻歌でも歌いそうな感じ。 
仮にこの先生ドクターZとしますが、ドクターZはかなりの名医で1日何件も手術をかけもちしてます。
ドクターZにとってはもしかしたら500人目の患者かもしれませんが、私は手術なんて初めてで、すごくナーバスだったので、忘れられない一言になったんです。

3月18日 やっと手術室があいたので手術。 前日の12時から何ものまず食べずで7時に病院。
最初にするのは Living will 日本語ではなんていうのでしょうか? 生前遺書でいいのかな。
手術に失敗した場合、それとこん睡状態になった場合に延命措置を行うか? というものです。
これがないと、たとえば植物人間になって、本人の意思で生きていたくないとしても装置をはずせないそう。

現実的なアメリカらしいけれど、やっぱり悩みました。 夫と子供には迷惑かけたくない、と。
なので夫の決断によると書きました。 意識が戻らなかったらお願いね、と。

それからスキャンのような物で撮影したりし、癌の場所を確認してから午後に手術。
結局、左胸全摘出とリンパ節も取り除く手術
Modified radical mastectomy
になりました。

目が醒める少し前に覚えてるのは、がたがた震えたこと、足もがくんがくんとしていて、のどの痛みで息ができず(この時チューブをはずしていたと思われます)すごい吐き気、誰かが大きな声でカモーン、カモーンと呼んでる、少し目を開けたらフラッシュのような光、見下ろす何人かの顔。 ここでまた意識不明

次に目が醒めた時には夜7時ごろ。
夫と息子が大きなバラの花束を持ってそばに居てくれました。
すごく、すごくうれしかったけど、ほとんど目も開けられなかった。

この日の夜はとにかく吐き気がひどかった。 今思うとモルヒネを投与されてたのでそれのせいかなと思います。
こんなに具合が悪いのに意地悪なナースが「立ってトイレに行くのよ」なんて言うんです。
「No,,,I can’t」と言うと「Yes!! you can!(ア、大統領)あなたはね、足を手術したわけじゃないのよ!歩けるのよ」なんて怒鳴られて、それでもできないとグズグズしてると「しょうがないわね、じゃあこれにトイレしなさい!!」なんておまるをお尻の下に入れられて、1時間くらい放置されたんです。
そんな格好でできるわけない~!この赤い大きな丸い後はしばらく消えなかった。

夜中、なんとか立ち上がると、とにかく吐き気が止まらず、歩くなんてとんでもなかった。 
1日目と次の日午前中はそんな感じ。 次に日からすぐに薄いチキンスープとジュースが出るんですが、まったく食べられず痛みとの戦いでした。 家族の支えがなかったら本当に耐えられなかった。 

胸はさらしのようにがちがちに巻かれ、焼けた鉄を載せてるような痛み。
腕には点滴とモルヒネ、両足にはサーキュレーション用の圧縮する血圧計のような物。

2日目のお昼に夫と息子がぬいぐるみとかカードとか色々買ってきてくれて嬉しくて少し元気が出たので、思い切ってスープを飲んだら(薄いクリアーなビーフコンソメ)びっくりするほど体力が戻ったんです。
この時から私の(病院から早く退院したい時は何か食べる作戦)がはじまりました。
なぜって、この後6回手術することになるからです。

この日はまだまだ、始まりだったんです。 後編に続く。
 

アメリカでのがん治療



昨日の記事にたくさんの激励のコメントありがとうございました。ものすごく嬉しかったです。
ブログのテーマがが(LAでの猫との楽しい生活)なんていうものなのに、急に重かったかなと反省してたら、とても暖かいお言葉を沢山いただき、本当に感謝しています。
一人でも多くの女性いえ男性にも(男性もあるんです乳癌、なのでどちらも)検査に行っていただきたいなと思ってます。

なので時々シリーズで書いていこうかな、と思いました

乳癌は女性にとってとても辛い病気だと思うんです。 でも発見が早ければ早いほど完治の確率も高いんです。
なので「おかしいな」と思ったら一刻も早く検査をして欲しいと思ってます。

私の場合はごつごつした塊でした。 母乳だったんですが、そのころからいつもなんとなく、あちこち塊があるような感じで、あまり気にしてなかったんです。 それに痛みもあったので乳腺炎のような炎症?と思ってました。
乳癌の本を読むと(乳癌の最初の発見はパチンコ玉の大きさ)ともかいてあったので、これは違うよねと勝手に考えてたんです。性格的にも癌なんてならないよねと思ってました。

それでも、、、一応見てもらおうと思って病院に行きました。 
医者の触診では「これは違うと思う、多分脂肪の塊で癌ではないと思う。大きすぎるし」と言われて、安心してしまった。「それでも一応マンモグラフィー受けるようにね」といわれたんですが、私がマンモグラフィーを受けるのは、その4ヵ月後だったんです。

夫もずっと出張だったし、子供の学校のボランティアでキャンセルしたりして、今考えるとバカでした。
医者の言葉をまったくそのまま信じてしまっていたので。 

3月にはいって夫が帰ってきたので一応マンモをと病院に行ったら「乳癌の可能性がすごく高いので明日ハワイの専門医の所に行きなさい」なんて急に言われて。 この決定までに3人の医者が触診して「違うと思う」って言ったんです。 なので少しでも変だったら進んで検査を受けて欲しいと思います。

ハワイについてから、すぐに検査。 かなり進んだ乳癌で4、5センチの大きさ、後からリンパ腺にも4箇所転移が見つかって、すごく落ち込んだのを覚えてます。 もっと早かったらせめて転移はなかったかも、とか。

検査の後、医者に
(How long do I have?) (私あと、どのくらい生きられるの?)って聞いたら、医者は肩をすくめて
Never know) って言ったんです!!よく言えば「さあ」 悪く言えば「しらねえ」ですね。
これは忘れられません。

日本だったらここで「だいじょうぶですよ」とかそれとも「余命はですね」と続く所なんでしょうけど。

ネーバノーって、なんだよ。こっちは命かかかってるんだよと飛び掛りたかったですけど、なんせ弱ってるので、そんなことも出来ず、それにその医者は執刀医なので数日したら(私は麻酔、あなたは手術)という図になるので黙ってました。
誤解のないように書いておきますが、ほかの事は全部丁寧に説明してくれました。でも手術室がいっぱい(!)と言う理由でやっと手術が出来たのは18日だったんです。 手術編に続く。

ハワイで乳癌治療

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10月はブレストキャンサーの月です。 この世から乳癌をなくそうと、企業や団体が一丸となる月。
ウオールマートなどのお店にもピンクのコーナーが出来ます。 
企業が利益の一部を乳癌撲滅の為の研究費などに寄付してます。
エステーローダーやエイボンも特別にピンクの口紅など作ってますね。 
ピンクリボン活動として日本でも広まっているのではないでしょうか?

2003年3月。 私は胸の痛みからマンモグラフィーをとり、乳癌が発覚しました。
ハワイに精密検査と治療のために飛んだのはその3日後です。 息子の8歳の誕生日でした。
誕生日パーティーだけはしてあげたかったので、その後に片付けも出来ないような状態でハワイに行きました。

着いたその日にトリプラーアーミー病院でバイオプシーという長い針を乳房に刺す検査。
これがすごく痛かった。 数日後にかなり大きな乳癌だとわかりました。

その日のことはすごく良く覚えていて、乳癌?こんなに空が青いのに?なんて変なことを考えたことよく覚えています。

不思議なことにあまり怖くなかった。 意外と短い人生だったんだなあと思ったことも覚えています。
手術の日までホテルに閉じこもってるわけにも行かないので、ホノルル動物園に子供を連れて行きました。

ママ見て~と呼ぶ声が可愛くて、走る後姿がいとしくて、、。

手をつないだら、あまりにも小さくてもみじのようで、その時に初めて怖くて怖くて泣きました。

こんな小さい子供を残して? この子の成長を見られない? 

そのことのほうが自分の命がなくなるよりもずっと怖かった。

かなり大きな癌で転移もあったのですが、手術、抗がん剤、放射線、又手術と繰り返して、こうして今も元気です。
残念なのは、大分前から「おかしいな」と思っていたので、そのときにすぐに検査していれば、もっと早く軽い治療で治ったのかも知れません。

少しでもおかしいなとおもったら、一刻も早くためらわずに検査を受けてください。 早ければ早いほど治癒率が上がる病気なのです。

あなたの大事な人にも検査を薦めてください。

治療は辛かった。 でも私は今とってもハッピーに人生をエンジョイしてます。
息子も大きくなりました。
生きている、って本当にそれだけで素晴らしいことだと思います。



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太田康介さんの本(やさしい猫)が出ます。ぽーちゃん!
プロフィール

tomotan

Author:tomotan
アメリカ人夫と結婚生活24年目、アメリカ生活17年目です。市民権をとり7年になりました。アイダホ、ハワイ、LAからオハイオにやって来ました。22歳の息子と7歳のニャンズがいます。ステージ3Cからの乳がんサバイバー14年目です。アメリカのドラマと映画が好きです。スリラー小説も。

乳がん治療の記録
2003年3月ステージ3乳癌発覚/ 3月手術2回(左胸全摘出とリンパ転移摘出)/5月から9月AC&Tの抗がん剤/9月から10月の終わり 放射線治療33回/ 再建手術、縮小手術、再建失敗により取り出し手術など4回/2005年子宮卵巣摘出手術 ホルモンブロック剤アルミデックス治療10年。 乳がん闘病日記はカテゴリーにまとめてあります。
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